衝撃のデビュー、記録的ヒット、結婚、離婚、そして・・・。

マライア・キャリーが初めて語った、人生を変えた運命の決断。

「私はシンデレラじゃない。奇跡は自分の決断で起こすものよ」
才能があって、美貌もあって、自信もあって・・・そんなマライアのような人生にただ憧れているだけの人生でいいのですか。 実は、彼女が歩んできた道は、決して “ラッキー” だけのものではなかった。大きな夢に向かうことこそ、美しいのです。

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anan Magazine by Keibun Miyamoto
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anan (JP) January 14, 2000. Photography by Keibun Miyamoto.

あなたの素晴らしい才能は、どうやって身についたものなんでしょう。
音楽の才能というものは、基本的にはどこかしらから受け継がれるものなのではないかしら。 母親からかもしれないし、アイルランドの音楽家だった祖父からからもしれないけれど・・・。母の影響が強いのは確かね。NY シティオペラに所属していた彼女は、離婚後の生活のために、ジャズクラブで仕事をしなければならなくなったの。ミマイ・ファニー・バレンタイン"サマー・タイム"・・・スタンダード ナンバーを教わったのは母からだったし、ステージに上がって歌ったりもしたのよ。夜中の2時にクラブに小さな女の子を連 れていくのはよくないことだったかもしれないけれどね(笑)。 兄や姉にはそんな経験はないから私だけ「特別」な気分だった。

ご両親の離婚は、あなたの音楽のキャリアにも大きな影響を与えているんですね。
その当時、私は3歳だったの。 父は厳格な人だったけれど、対照的に、母はヒッピーのよう な考え方を持つ女性だった。キング牧師と行進をしたこともある市民活動家としてね。離婚後は、自由で芸術的な人間として私を育ててくれたわ。とはいっても、母は私に何かを強制することはなかった。「大人になった男の人に尽くさなければいけないのよ」なんてこともね。自分らしくありなさい、歌を歌い たいなら歌いなさい、自分の力を言じなさい、と励ましてくれたの。私がこんなに強くなれたのは、母が早いうちに私を自立させてくれたからなのよ。

あなたは、シンデレラストーリーを地でいく人というイメ ージが一種伝説化していますね。 デビュー前は苦労もあったと聞いていますが・・・。
レストランの案内役やウェイトレス、バック・ボーカル、何でもしたけれど、私もルームメイトのジョセフィンも、週に5ドルしか持っていなかったわね。 でも、別に構わなかった。17~18歳のときはそんなことへっち やらよ。「私は夢に向かって生きているんだ、私には自分の人生が見える。そこにたどり着くまで絶対に諦めない」ってね。 正直言って、大成できると思っていたの。たった1足、穴のあいた母のお古の靴しか持っていなかった娘がよ!

そんなに自を持っていられたのには、どんな理由があるんですか?
自分を大切にできた、それだけだと思うわ。私は子供の頃、自分が「かわいい」なんて思ったことがなかったの。父はベネズエラ人で、母がアイルランド人という、いろんな意味で複雑な環境のもとで育った子供だったので、「みんなとは違う」って感じることが多かった。学校でも、どのグループともしっくりいかなかったし、いじめられることだって珍しくなかった。でも、ハイスクールを卒業する頃には、カッコいい”連中のひとりだったのよ。

どうやって?
最初は、無理して自分を作ることから始まったの。でも、13歳のときには、もう曲を書き始めていたし、学校のみんなと同じ道を歩む必要はないんだ、ということが誰よりも早く理解できたんだと思うわ。だから、若い女の子は、ルックスの善し悪しばかりを気にしがちだけど、そんな必要はないんだということを言いたいの。本当に着たいものを着て、やりたいことをやる、そうすれば、自然と周りも一目置くようになるものよ。自分が輝くためには、それしかないのよ。

18歳のとき、デモテープをパーティー会場で、後の夫となるトミー・モトーラ氏に渡したというのは有名な話ですが...。 それがきっかけになって、20歳でデビューとなるわけですよね。
当時は私の2度目の子供時代のようなものね。ひとりでマンハッタンに出てきていたので、誰か私を見てくれる存在が欲しかったのかもしれない。トミーからはたくさんのことを学んだわ。年齢差はかなりあったけれど、私はすでにたくさんのことを経験していたから、とても知的に何でも話し合える深い結びつきがあったのよ。本当にクリエイティブな関係だったわ。

23歳で結婚、4年後に別離を決意した裏にはどんな気持ちの変化があったのですか?
結婚前までは、なによりも歌優先だったので、男の人とは高校生同士のような表面的な交際しかしたことがなかったの。そんな若い女の子が、突然あんなに深い結婚生活に入ったのよ。 ずいぶん長い間、私は私らしくすることができなかった。「おまえはグレートだ。僕の魔法で、その夢を現実にしてあげる」と言われることは、素敵なことのように思われるけど、その一方で、自由な魂を封じ込められることでもあったのよ。着るもの、やりたい音楽、何から何まです べてね。

それにしても、離婚というのは、かなり勇気のいる決断だったでしょう。その破局をどう乗り越えたのですか?
正直に言うと、落ち込んだというよりは怖かったわ。私の人生やキャリアのすべてが彼の手中にあったのだから。先が見え なかった。彼は私にとって必要だと心理的に思い込まされていた状態から離れるのは、男気がいったの。でも、新しいシングルを作ったことで、やっとまた、目が戻ってきたし、気分がよくなったといえるわね。誰の魔法もかけられなかったし、すべて自分の魔法で作り上げたものなのよ。

昨年の9月に発売された『ハートブレイカー』ですね。アルバム『RAINBOW』も、かなり力強い仕上がりになっているようですが。
そう。自分で曲を書いて、友人のDJクルーと一緒に仕事をしたの。アーティストというのは、無意識のうちに自分の人生を作品に反映させているものだと思うけれども、このアルバムは、歌詞もタイトルも含めて、今の私のすべて、といったところかしら。虹の7つの色はそれ ぞれ力強くて美しいけれど、それぞれの色が寄り集まった光景は奇跡的ですらあるでしょう。 私自身のテーマでもあるしね。 私の中には小さな『レインボウ”が存在している。私の人生には美しいこともたくさんあったけど、嵐もたくさんあった・・・でも、虹は嵐の後の美しさを象徴するものなの。そして、この背景には、「世界中の異なる種族が団結することができたら素晴らしい」というコンセプトもあるのよ。ミレニアムへの橋渡しのようなものになればいいと思っているわ。

21世紀に向けての、あなた自身の理想イメージでもあるんですね。
ええ。この大きな世界には多数の異文化があるし、常に何かが起きている。そんな地球上で、もっと女性たちがパワーを持てたらいいと思うの。男女平等というコンセプトを超えた、もっと大きな意味での「平等」という感覚も欲しいわね。そして、特に女性たちには、できる限り、気持ちよく生きてほしい。

あなたは、すでにその一歩 を踏み出したんですね。
ファッションのことかしら? (笑)最近、肌の露出が増えたとか、セクシーな服ばかり着るようになったとか、いろいろ言われるけれど、単に、今まで着させてもらえなかった服が着られるようになっただけのことなのよ!世の中にはもっと重要な問題がたくさんあるのに…・。ただ、私を尊敬してくれて、ルックスを理解してくれて、違う世界に連れていってくれるデザイナーは、みんな好きよ。それに、私にとって「何がカッコいいのか」を知るいちばんのバロメーターは、フレッシュ・エアー・ファンド"(マライアが主宰する恵まれない子供たちのための基金)の夏のキャンプに集まってくる女の子たちの反応なの。 ブランドや、流行のスタイルには、あまりこだわったことはないわ。

30歳を迎えるということについては、何か感想はあります か?
なってみないとなんとも言えないわね。多分、私自身はあまりそのことだけでは変わらないでしょう。

恋愛については?今は恋人はいるのでしょう?
離婚した直後はいろいろな人たちから誘いの声がかかって、噂もたくさん。ご存じでしょう? そうね、今はとてもいい関係を持っている人はいるわ。幸せよ。 でも、プライバシーなんて、ほんの少ししかないのも事実。だから、あまり話さないことにしましょう(笑)。

結婚や出産のことは、どのように考えているのでしょうか。
離婚に関しては正しい判断だと思っているけれど、これからのことについてはなんとも言えない。いつの日か、いい家庭を築きたいとは思っているけど。 今、いちばん重要なことはプライベートよりも仕事。なかでも、映画は長い時間をかけて作っているところよ。『All That Glitters』というタイトルで、素晴らしいスタッフたちがどんどん集まってきているの。サウンド・トラックも私が書いているわ。芝居は長いこと勉強してきたし、この企画は私にとって、とても意味のある大切なものなの。

その後の構想などは決まっ ているのですか?
何事も全力を尽くして生きていくだけ。誰にでも、ひとつは自分だけ特別っていうものがあるはず。それと同時に、孤独感や違和感も誰にでもあるもの。 でも、自分のなかの優れた部分をすべての人にとって讃えられるものにしていくのは、自分なのよ。他人の言動や評価ではなく、自分自身を見つめていけば、きっといつかは道が開けてくるのよ。