「ある日の朝、起きてみたら今のわたしを取り巻く〝スター現象〟が終わっていた、という結果には陥りたくないのよ」
ニューヨークは57番街の目抜き通りにある五つ星級ホテルの一室で静かにこう語るのは、シンガーのマライア・キャリーだ。
「だってわたしはまだほんの駆けだしでしょう?これから息の長いキャリアを持続させたいから、日々、すべてを控えめに、つつましい気持ちで受け入れるよう心掛けているわけ。好きな歌で暮らしていけるだけでもラッキーなことだと思うから・・・・・・」
1990年5月にアメリカでデビューしてから、現在までに発表した2枚のアルバム『マライア』と『エモーションズ』は、91年12月末現在、全世界で総売上げ1200万枚を突破(うち800万枚は米国内売上げ分)。21歳にして、昨年2月のグラミー賞で最優秀新人賞、最優秀ポップ・ヴォーカル賞を獲得したのをはじめ、各界で数々の賞を総なめに。今までにシングル5枚をたて続けに全米チャート第1位に送り、マライア・キャリーは瞬く間にアメリカ・ポピュラー音楽界が誇るスター・エンターテイナーのひとりとなった。
そんな爆発的な人気、周囲の騒ぎを横目に、こうして一対一で向き合ったところの彼女は、足が地についたという形容がぴったりのざっくばらんな態度だった。マスコミ用声明文を暗記して質問に答える、といった、デビュー時に会った時の神経質な応答がりとはうって変わった、大成功による自信から生まれたゆとりある素顔だ。
そう、マライア・キャリーはスターダムというクリスタルで出来たハイヒールを素足に履いたシンデレラ、という感じだ。
「この世界、つまり芸能界は才能がない人でもスターになれる所でしょ。スターの世界は幻想に満ちているから、それを利用すれば有名になれるわけ。だから、よく忠告されるの。これだけ派手に売れてるんだから、もっとスターらしくしろ、もっと気取れ、って」
でも〝雲の上のひと〟には絶対になりたくない、わたしはわたしなんだから、と言ってのけるマライア。話が弾むにつれ、ちょっと人見知りでシャイな性格が婆を消し、ヴィデオやTV出演から受けるイメージとは違った本音が次々に飛び出してくる。
「スターぶっていたら自分を見失ってしまい、現実と取り組めなくなると思う。それは本当のわたしの姿ではないわ」
やせぎすな体にぴったり纏いついたセクシーな黒のドレスは、お気に入りのデザイナー、ノーマ・カマリの作品。フォト・セッションを次に控えていなかったら普段着のジーンズでいられるのに、と靴を脱ぎソファーに長々と横たわりながら、マライアは話を続ける。
「不思議なものよね。もっと自尊心を高く持て、と言われることもあるけれど、アーティストとしてエゴがなければやっていけないのはたしかだし、わたしの中にエゴイストな部分があることもたしかなのよ。そうじゃなければここまで自分を言じ切って、歌を続けられなかったと思う。でも・・・・・・」
ここまで来れたのは、周囲の家族、友人、関係者達のおかげ。単に幸運だったのよ、と自分に言って聞かせるように繰り返す彼女のスターらしくない自己謙遜ぶりは、どこから来ているのだろう。そんな疑問をぶつけてみたら、マライアはしばし沈黙し、ゆっくりと深呼吸をした後、やっと口を開いた。
「それはわたしが異人種間の結婚による産物だ、というところから来ていると思う。だって、他人同士が一緒に人生を分かち合うだけでも大変なのに、わたしの父と母の場合は黒人と白人の間の結婚で、家族全員にとってはつらいことの連続だったのよ。それをわたしは幼い、物心ついた頃から見ていたから・・・・・・」
ネイティヴ・ニューヨーカーであるマライアの父は、ヴェネズエラ出身の黒人とアフロ・アメリカンの黒人の両親の間に生まれた生粋のブラックで、働きながら苦学し叩きあげたという航空工学技師のインテリだ。
米中西部イリノイ州出身でアイルランド系アメリカ人3代めの母は、16歳の時に両親の反対を押し切ってNYに上京。苦労の甲斐があって、プロのオペラ歌手になった。
両親はパーティーで出会って結婚。10歳上の姉、9歳上の兄、そしてマライア(1969年3月生まれ)の3人の子供が誕生したものの、マライアが3歳の時に離婚している。
「母は公民権運動を支持するリベラル派だったけれど、父は黒人の権利を主張するなんて自分の知ったことじゃない、つていうお堅い共和党員だった。2人の間にはいつも緊張感が漂っていた、と兄に聞いたことがある」
彼女が生まれて育ったのは、NY市から電車で東に一時間程行った所にある街、ロング・アイランドの北側にある街、ハンティントン。周囲は中産階級の白人ばかりで、黒人とのミックス・マリッジなんて、と5人家族に対する嫌がらせが続いたという。
「石が投げ込まれて家の窓を割られたり、父の車が爆破されたり、飼い犬に毒を盛られたり・・・・・当時は60年代末から70年代の初めで、過潔な時代的背景があったせいかもしれない。でも、今思うと、父はそんな状況に耐えられなくなって家を出ていったのかもね」
父が去った後、マライアが7歳の時に兄が家を出て、母の元で育った彼女はしばらくの間、黒人のハーフであることを隠していた。
「着るものはお下がりばかりで、近所で一番みすぼらしい家だったけど、白人だけのコミュニティーに住んでいたわけでしょ。兄は見かけが黒人だったけれど、わたしの髪はブロンドだし、肌も白かったから、何も言わなければ白人で通ったわ。それに(両親の離婚で)キャリーって母方の姓を取ったから、アイルランド系だと思われていたし。でも、自分の中にいつも疑問があったことはたしかよ。わたし、これでいいのかしら、って」
高校生になるまでは自分が可愛い、と思ったことがなかった、と言うマライアは自我に目覚めると共に自分のアイデンティティーを認識し始め、「わたしはわたしなんだから、そのままの自分を受け入れることができれば、それでいい」という境地に達したものの、「周囲に自分と同じ境遇の人がまったくいなかったのは寂しかった」と言う。
そして高校を卒業した17歳の時にマンハッタンに出てきて、ウエイトレスをしながら歌手としてデビューする機会を狙った。
「子供の時に思っていたの。大人になれば、自分は黒人と白人のハーフなんだ、って会う人ごとに説明しなくてもよくなるはずだ、って。でも、歌がヒットしたことで苛酷な現実に気付いたの。皆、なぜ音楽を人種別に分けたり、アーティストの肌の色によってジャンル分けしなければならないのかしら・・・・・・わたしには理解できないわ」
ポップ、ブラック・ミュージック、アダルト・コンテンポラリー、とジャンル、そして世代層を超えたヒットを放つことが出来たのは、自分の生い立ちによる、と自己分析する彼女。だが、現実社会も音楽界も人種差別が激しいのに心を痛めている、と嘆く。
「黒人も白人も、黒か白かで、その中間はない、と思う人が多いわ。この子は最初出てきた頃は黒人みたいな歌を歌う白人、で売ってたのに、何で今さら黒人のハーフであることを宣伝しなければならないのか、って黒人側から非難されているけれど、わたしはわたし。その事実を受け入れてもらうしかないわ」
昨年12月1日付の『ニューヨークタイムズ』紙ビジネス欄でその癒着ぶりが報道された、所属レコード会社社長との恋愛関係を認める大胆さがあるかと思えば、最近、仕事のし過ぎで夜あまり眠れず困っている、と赤ワインをすすりながらつぶやくマライア・キャリーは、タフで自信満々な大人のおんなと、ガラスのように脆い少女が同居した、22歳のシンデレラだった。